【戦国大名を知る】「上杉家」戦国時代の出世魚

戦国絵巻

日本全国で大名が凌ぎを削った戦国時代。
次々新たな勢力が台頭し、群雄割拠の時代に突入しました。

戦国大名はそれぞれのドラマを持ち栄枯盛衰の世を送りました。
それぞれの戦国絵巻を覗くことでそこにあるドラマを紐解いていきます。

今回は越後の雄「上杉家」です。

戦国時代には関東から北信越にかけて上杉氏が乱立しています。
その中でも今回覗くのは「米沢上杉家」です。

一般的に知れ渡る上杉謙信の上杉家をまとめていきます。
上杉家は守護代から始まり、関東管領、五大老と乱世の中をどんどんと出世します。

「長尾為景→長尾晴景→上杉謙信→上杉景勝」を振り返ります。

上杉家の出発点

長尾為景の下克上

戦国時代の越後は全国でも屈指の戦闘地域でした。
小勢力の国人衆、一向衆がしのぎを削って戦いが繰り広げられます。

越後で守護代職にあった長尾為景(1486-1543)は弱勢力からのし上ります。
為景は謙信の父親で景勝の祖父にあたります。

為景は外交と戦にて、長尾家の支配領域を拡大させます。

主君である越後守護の上条上杉家の統治体制にも口をだします。
上杉定実を守護に立て傀儡政治を実行します。

為景は中央の朝廷・幕府にも口利きをして自らの地位も向上させます。

上杉家の地盤を築く

長尾為景は越後各地を転戦して支配領域を広げます。
関東管領であった上杉顕定の侵攻を跳ね除け撃破するなど広く活躍。

悲願の越後統一とはなりませんが、後の上杉興隆の原点となる働きをしました。

軍神登場

1540年、為景が隠居すると嫡子である長尾晴景(1509-1553)が長尾家の家督を継ぎます。
晴景は守護代と春日山城城主として、長尾家を引っ張る立場でした。

しかし、晴景には父親ほどの技量はなく越後の国人衆が再び力を取り戻します。
傀儡であった守護の上杉定憲も復権して、長尾家は前時代から一歩後退。

晴景が領内統治に苦しむ中、実弟の長尾景虎(のちの上杉謙信)が台頭します。
あまりの力の差に家臣団からも晴景に対する疑問の声が上がり、晴景は居場所がなくなります。

結果、晴景は早々に弟である景虎に家督を譲り隠居生活へ入りました。

軍神・上杉謙信

圧倒的な戦闘能力

長尾景虎(1530-1578)は凡庸な兄の下、領内に迫る敵を駆逐します。
国人衆や謀反勢力を鮮やかに撃退。
※以降、謙信と表記

結果、1548年に19才で兄から家督を相続しました。
そこから越後の荒れた勢力図を整えて、わずか3年で越後統一を果たします。

父、為景さえ成しえなかった越後統一をあっさりと成し遂げます。

武田と北条

謙信は越後統一後、信濃で支配領域を広げる武田と戦闘に入ります。
宿敵である武田信玄と川中島で複数、刃を交えます。

謙信は関東へも軍を率いています。
関東一円に覇を唱える北条勢氏康を打ち負かし、小田原城を包囲します。

関東管領就任

謙信の武勇が広まると山内上杉家から驚きの打診を受けます。
上杉憲政が務める関東管領と山内上杉の家督を譲るというものでした。

謙信は守護代から関東管領へと鬼出世を果たします。
関東管領就任後は戦の大義名分を発揮し、どんどんと出征します。

最激戦の第4次川中島の戦いでは双方、多大な損害を出す大決戦となります。
関東では、名手長野業正が死去すると均衡が崩れます。

謙信は里見家と同盟を結び、北条側になびく成田・小田・小山・結城と諸城を次々に攻め落とします。
同時に隙をつき領内に侵攻する蘆名家をも撃破していました。

まさに戦い漬けの日々です。

「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」

越中侵攻

謙信の晩年は越後の隣国、越中へ乗り出します。
武田・北条との戦いが収束方向へ向かい近隣諸国への介入を始めます。

越中は治安が悪く、一向一揆衆が台頭していました。
謙信は椎名、神保といった越中勢力を倒し、一向一揆衆も鎮圧。

越中を制圧すると自治領にし、次は能登の争いへ介入します。
七尾城の戦いを制して、能登も平定してしまいます。

織田家との戦い

上杉の勢力が広がると謙信は本願寺と講和を結びます。
一向一揆に手を焼いた謙信は、これで上洛への道筋を確保。

中央で勢力を伸ばす織田家と対決します。
これが謙信の最後の大きな戦いでした。

織田軍は柴田勝家を筆頭とする織田家オールスター。
手取川で衝突した両者は上杉軍の圧勝で終わったとされています。

辞世の句

謙信は織田家との戦いにも勝利し、上洛の機運を高めました。
しかし、いくら軍神といえど病には勝てませんでした。

突然の脳出血で謙信は命を落とします。

辞世の句は「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」

49年という長い一生も一晩の夢のように短い。
人生で築いて生きた栄華も一杯のお酒程度のものである。

痺れる辞世の句を残して、軍神はこの世を去りました。

上杉家のその後

血で血を洗う内紛

謙信は仏門に入り生涯不犯。
跡継ぎ候補は4人の養子でした。

上杉家家督に対して、謙信は明確な意思表示をしないままに死去します。
そのため、養子間で家督争いが勃発します。

偉大なる謙信の後釜は誰が務めても役不足。
この戦いは戦国屈指のお家騒動に発展します。

上杉景勝と上杉景虎が互いに強く家督を主張し御館の乱が始まります。

御館の乱

御館の乱は上杉軍をパックリ二分します。

開戦当初は周辺国にも顔が利く景虎が優位に運びます。
景虎は山内上杉家(前関東管領)、伊達、蘆名、北条から助力を受けます。

それでも景勝は景虎の勢力を徐々に削り、逆転勝利を収めます。
景虎の勢力は自刃か殺害など強い処分を果たします。

景勝は反乱因子を生まないために、自分に味方した国人衆までも殺害します。
この内紛によって上杉家の軍事力が低迷したのは言うまでもありません。

かくして、上杉景勝(1556-1623)が米沢上杉家の2代目に就任しました。

120万石の大大名へ

国力が著しく低迷した上杉家は滅亡待ったなしまで追い込まれます。
織田家の北伐が開始すれば瞬く間に滅亡すると思われました。

窮地の上杉家でしたが天運が救います。
織田信長が本能寺の変で倒れ、九死に一生を得ます。

織田家が衰退すると景勝は豊臣家へ接近します。
上杉家は賤ヶ岳、小牧・長久手、小田原、朝鮮と随所で派兵しました。

気づくと景勝は豊臣家の五大老に選ばれて、会津に120万石の所領を得ました。

江戸時代へ

上杉家は関ヶ原では西軍に加勢します。

家康が会津征伐に乗り出すなど東日本の鍵を握りました。
会津征伐の流れから慶長出羽合戦で最上と戦います。

戦後、西軍へ加担したことから米沢30万石に減封されます。
景勝は米沢藩の初代藩主として、領内の治世を務めます。

徳川治世では奉公に励み、大坂の陣では徳川勢として武功を上げました。

その後、米沢藩は幕末まで続きました。

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