【戦国大名を知る】「津軽家」陸奥の下剋上

戦国絵巻

日本全国で大名が凌ぎを削った戦国時代。
次々新たな勢力が台頭し、群雄割拠の時代に突入しました。

戦国大名はそれぞれのドラマを持ち栄枯盛衰の世を送りました。
それぞれの戦国絵巻を覗くことでそこにあるドラマを紐解いていきます。

今回は陸奥の戦国大名である「津軽家」です。
津軽家は創家である津軽為信が一代で戦国大名へ押し上げました。

今回は「津軽為信→津軽信枚」までを振り返っていきます。

津軽家の出発点

大浦家当主

津軽家の出発点は大浦為信にあります。
為信は出自が定かではありませんが、南部家支族にルーツがあるという説があります。

為信は1567年に大浦為則の娘である戌姫と結婚します。
為信は大浦家の養子に入ります。

大浦家は津軽地方に根付く、南部家中の庶家の1つです。
為信が養子に入ると直ぐに当主の為則が死亡し、為則が大浦家5代目当主に就きます。

為信の謀反

為信は家督を継いでから戦力を増強します。
1571年に南部家のエースである石川高信を襲います。

石川高信は津軽地方の南部家要所である石川城に居住しました。
為信は巧みに高信を出し抜き、石川城を攻め落としました。

落城させた為信は高信を自害に追い込みました(諸説あり)。

南部家は南部晴政と南部信直の間で激しい家督争いがあり、その隙をつき為信が領土を広げました。
1578年、津軽地方の安東家よりの浪岡家を滅ぼし、為信は津軽地方の統一を果たします。

津軽家、独立への動き

津軽為信の辣腕

為信は津軽平定を果たすと中央の権力者へ外交に乗り出します。
為信は東北地方の有力者である最上氏に近づき、中央の情報を得ます。

その後、所領安堵のため、豊臣秀吉に恭順の意を示そうとしました。

津軽家の本拠は本州最果ての青森県です。
当初は南部家、秋田家という難敵に阻まれて秀吉へ謁見することが出来ませんでした。

所領安堵は難航しますが、なんとか秋田家と和睦を結び秀吉の信を勝ち得ました。

南部家との争い

津軽家と南部家は豊臣家に与する同勢力となります。

南部家側は逆賊の徒である津軽家を許すことは出来ません。
豊臣家に「津軽は惣無事令に反する」と訴えます。

津軽家は窮地に陥りますが、丁度、小田原の戦いが発生します。
南部家より、いち早く駆けつけます。

豊臣家に釈明をして、津軽家は独立した戦国大名としての地位を確立しました。

南部家の一庶家から為信一代で戦国大名へ成り上がりました。

津軽家その後

津軽家と関ケ原の戦い

為信は豊臣家亡き後は家康側につきます。
関ケ原の戦いは東軍側に立つも子息を西軍にも送り、家の存続策を取りました。

江戸時代に入っても津軽地方の情勢は落ち着きませんでした。
津軽家は謀反により興したルーツがあるかもしれません。

為信亡き後

津軽為信は1607年に死去します。

家督は長男である信建が継ぐ予定でしたが、信建は病死。
代わりに三男の津軽信枚が後を継ぎました。

しかし、信建の遺児が藩主に名乗り出ます。
為信の息子と孫による家督争いはお家騒動に発展します。

結果は幕府内の裁きによって、信枚に家督の正当性が認められました。
「津軽騒動」と呼ばれたお家騒動ですが、今後、津軽家はお家騒動が勃発します。

一族安泰までは険しい道のりを歩みました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。