【戦国大名を知る 】「南部家」北奥羽の名門大名

戦国絵巻

日本全国で大名が凌ぎを削った戦国時代。
次々新たな勢力が台頭し、群雄割拠の時代に突入しました。

戦国大名はそれぞれのドラマを持ち栄枯盛衰の世を送りました。
それぞれの戦国絵巻を覗くことでそこにあるドラマを紐解いていきます。

今回は陸奥の戦国大名である「南部家」です。
南部家は南部晴政、南部信直といった有能な当主が有名です。

今回は「南部安信→南部晴政→南部晴継→南部信直→南部利直」までを振り返っていきます。
「信長の野望」だと開始時点から東北の一大勢力のため、快適プレイが楽しめます。

南部家の出発点

津軽平定

鎌倉時代前期の武将である南部光行が南部家の出発点とされています。
諸派ありますが、そこから北奥羽などで武家として、確立。

戦国時代に入ると北奥羽での活躍が目立ちます。
南部家23代当主である南部安信(1493-1541)が戦国大名の基盤を作ります。

安信は息子であり次期当主である晴政が活躍する地盤づくりに尽力しました。
津軽の平定に成功し、現在の青森県を統治下に置きます。

津軽地方の政治は石川城に実弟の石川信直を置き、彼に一任しました。
信直は南部家に大きな影響力を持ちます。

南部家のカリスマ

南部家を戦国大名へ押し上げたのが南部家24代当主、「南部晴政(1517-1582)」です。
晴政は父である安信から1541年に家督を継ぎます。

晴政は終盤の失策を除けば間違いなく陸奥10将に入る名将です。
現在の岩手県内の各勢力を次々と倒し、平定します。

南部に並ぶ東北の雄である出羽の安東家の侵攻も退けています。
同時代の東北を代表する安東愛季とは凌ぎを削りました。

「三日月の 丸くなるまで 南部領」

南部家の最盛期を築いた晴政治世を指す句です。
三日月の頃に南部領に入ると抜ける頃には満月になるという南部領の広大さを示します。

晴政は青森県、岩手県、秋田県(一部)と広大な領土を支配していました。

晴政は軍備を増強し領土を広げる中で、外交面も巧みにこなしました。
早い段階で織田信長にも近寄りました。

津軽の争乱

1571年、津軽にて大浦為信(津軽為信)が南部家からの独立戦争を起こします。
晴政の叔父で一族重鎮の石川高信を自害(諸説あり)に追い込みます。

為信は津軽領内の南部豪族を討伐しつつ、南部家討伐軍と戦いました。
結果、晴政は家内の家督争いもあり、津軽の地での独立を許しました。

晴政の終盤はお家騒動を収束出来ずに南部家に混乱を招きました。

南部家の跡継ぎ争い

信直と晴継

晴政には嫡男が誕生しませんでした。
そのため、一族衆から養子を迎えることにします。

晴政の従弟にあたる石川高信の子、南部信直を養子に迎えます。
1565年に晴政と信直が婚姻し、娘婿として信直が跡継ぎに決まります。

南部家次期当主は信直が濃厚でしたが、1570年に晴政の実子(嫡男)が誕生します。
急転直下の嫡男誕生に跡継ぎ争いは揺れます。

晴政は跡継ぎに嫡男である南部晴継に譲ろうと画策します。

晴政と信直の関係は次第に悪化し、内戦目前まで転じます。
晴政は信直を暗殺しようと次々、刺客を放ちます。

南部家は晴政派閥と信直派閥に分かれたお家騒動となります。
お家騒動の隙をつき、津軽家独立など南部家は一時期の勢力を失います。

南部家中興の祖

南部家の家督は晴継が継ぎます。
しかし、晴政が1582年に病死すると晴継も同年に13歳の若さで死去します。

晴継の死には「病死説」、「信直の暗殺説」、「九戸政実の暗殺説」に分かれます。
晴継が早世したことにより、当主の座は信直に回ってきます。

南部信直(1546-1599)が26代南部家当主に就きます。
信直は高い政治力と武勇を兼ね備えていた名将でした。

跡継ぎ争いや家臣の反乱などで弱体化した南部家を再度まとめあげます。
同時に家内で勢力をつけていた九戸政実との溝が深まっていきます。

10万石大名へ

信直は津軽地方の奪還を目指すも小田原参陣などで進みません。
豊臣政権に津軽為信の悪逆を直訴するも為信が上手く立ち回り、断念させられます。

一方で、信直は奥州遠征にて豊臣政権に恩義を売り込み、南部家の東北地方での影響力を確かなものとします。
津軽地方の代わりに、新たな加増もされ10万石大名として、確立しました。

家臣団には八戸政栄、北信愛などの名臣が信直を支えました。

南部家その後

九戸政実の乱

南部晴政の死去後、南部家内では派閥争いが激化しました。
晴政の下で活躍した九戸政実が信直に反旗を翻し、反乱を起こします。

九戸勢は南部家中でも精鋭揃いです。
九戸勢は兵5,000で南部家の拠点を次々と攻略します。

堪り兼ねた信直は南部家内で事を収めることが出来ず秀吉に救援を依頼します。

奥州仕置完遂

秀吉は天下統一事業の総仕上げである奥州仕置を完遂させるため、大軍を編成し九戸勢討伐に動きます。
九戸討伐には伊達、最上、戸沢、津軽、秋田、松前の東北オールスターから徳川、上杉、前田、大谷などの諸大名も出陣します。

九戸勢は居城の九戸城で徹底抗戦。
天然の要塞とされた九戸城が地の利を発揮し、歴戦の猛者たちを苦しめます。

兵数では圧倒的に有利な討伐軍ですが、被害数は甚大でした。
苦しむ討伐軍は正攻法を諦め、策に嵌めます。

偽装和睦案を九戸勢と交わし、九戸城を開城させます。
九戸勢が開城すると和睦の約束を反故にして、城内の関係者を惨殺します。

首謀者の九戸政実らも揃って処刑されました。
これにて、秀吉の奥州仕置、天下統一事業は完遂しました。

盛岡藩主

南部家は信直の子である南部利直(1576-1632)が27代当主を務めます。

秀吉亡き後の南部家は家康に近づきます。
関ヶ原の戦いでは、慶長出羽合戦にて最上軍の後詰めとして参戦します。

裏で伊達政宗の陰謀を受けますが、江戸幕府でも一定の地位を守られます。
盛岡藩として江戸幕府内との関係向上に努めました。

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