【戦国大名を知る】「最上家」最上家とは最上義光の物語である

戦国絵巻

日本全国で大名が凌ぎを削った戦国時代。
次々新たな勢力が台頭し、群雄割拠の時代に突入しました。

戦国大名はそれぞれのドラマを持ち栄枯盛衰の世を送りました。
それぞれの戦国絵巻を覗くことでそこにあるドラマを紐解いていきます。

今回は出羽探題を務めた出羽の名門である「最上家」です。

最上義光が最有名。
最上家は元々は室町幕府で要職を務めていたことから中央情勢にも通じています。

今回は「最上義守→最上義光→最上家親」までを振り返っていきます。

最上家の出発点

最上家と戦国時代

最上家は室町幕府の要職を務めてきました。
「羽州探題」という役職を任され東北地方を統括しました。

戦国大名化を果たしたのは10代目当主、最上義守の時です。
義守は隣国の伊達家で勃発した「天文の乱」に乗じて、伊達家から長谷堂城を奪還します。

長谷堂城は、その後、慶長出羽合戦で大きな役割を果たします。

義守の長谷堂城奪還によって最上家は戦国大名として声を上げます。

天正最上の乱

義守の嫡男は後に東北を代表する名君になる最上義光でした。
しかし、義守と義光の仲は良好ではありませんでした。

家督を譲った後も、義守と義光の仲は改善しません。
1574年に両者の確執が決定的となり、父子相克が発生(天正最上の乱)。

義守は最上家領内の国人衆、伊達家を使い義光を打倒しようと動きます。

義光軍は寡兵でしたが、なんとか反乱軍を退けました。
この反乱を制し、最上家中は義光一派で固められます。

東北を代表する将軍 最上義光

出羽統一

父親との争いを制して、最上家を治めた最上義光。

義光は戦国時代の東北を代表する名君です。
個人的には東北地方では実力ナンバー1の戦国大名。

義光は家中を治めると拠点を置く、出羽地方の統一に動きます。

出羽には最上八楯(天童八楯)と呼ばれる有力な8つの国人衆が存在しました。
義光は最上家の勢力増大を図り、最上八楯との戦いを開始します。

国人衆をまとめ上げた後には、小野寺家、大宝寺家と衝突。
隣国の上杉家、伊達家とも揉めながら国内を安定させていきました。

伊達家との衝突の際には、義光の妹で伊達政宗の母である義姫が幾たびも仲裁に入り停戦協定が結ばれました。

駒姫の悲劇

出羽地方で安定した地盤を築いた義光は中央権力とも結びつきます。
元来、室町幕府の要職を務めていたこともあり地方の勢力の中では情勢察知に長けていました。

義光は父の代から外交の役割を担っていたので信長、秀吉との関係も築いています。

中央と親しい最上家ですが、中央権力に巻き込まれる形で悲惨な事件も起きています。
それが「駒姫の悲劇」です。

駒姫の悲劇

駒姫は義光の娘です。
駒姫は美貌で知られ、豊臣秀次が山形城に訪れた際に気に召したとされています。

秀次は義光に再三、駒姫を側室に迎えたいと要請を出します。
義光は愛娘を想い京へ出すことを頑なに断っていました。

しかし、次期天下人である秀次の要請を断り続けることも出来ずに駒姫は京へ上ります。

駒姫が京へ上るやいなや、嫁ぐ予定であった秀次は謀反の疑いを掛けられ自害。
秀次一派は連座させられ、駒姫も処刑の対象に入ります。

これを知った義光は秀吉に嘆願を乞います。
駒姫の悲運を知った諸将も義光の嘆願に応じ、秀吉に駆け寄ります。

秀吉も駒姫への処刑撤回を出さざる得ませんでしたが早馬が間に合わずに処刑は行われてしまいました。

この凶報を知った義光は怒り狂います。
妻も駒姫を追うように亡くなり、悲劇の日々を送ります。

駒姫の悲劇は義光の反豊臣、関ケ原での東軍陣営参加へ繋がるといわれています。

慶長出羽合戦

秀吉亡き後、日ノ本は「徳川vs石田」陣営に分かれます。

最上家と長らく敵対する上杉家は「直江状」により徳川家へ宣戦布告。
家康は打倒上杉を掲げ、会津征伐に向かいます。

徳川勢が会津征伐に行軍を開始するとその背後を狙い石田三成が挙兵。
徳川軍は会津に向かうことなく、関ヶ原にて石田軍を迎え撃ちます。

家康は上杉軍には最上・伊達などの東北勢力で抑えようとします。
こうして、慶長出羽合戦が始まります。

2万を超える上杉軍に対して、東軍側の勢力は最上家以外集まりません。
結果、最上家のみで直江兼続率いる大軍を相手にします。

最上家の兵力は7,000人も集まらなかったと言われています。

奮戦に次ぐ、奮戦

劣勢の中、最上軍は耐久戦に持ち込みます。
最上軍の将たちは各々の居城で圧倒的な足掻きを見せて上杉軍を苦しめます。

最激戦となったのは長谷堂城での戦い。
長谷堂城は本城の山形城を守る上で最も重要な支城でした。

兼続は長谷堂城を圧倒的な戦力差で取り囲みます。
長谷堂城の最上軍は10倍以上の戦力差ながら夜襲を仕掛けるなどして、上杉軍を苦しめます。

長谷堂城にて、最上軍は善戦し、膠着状態を作りました。

関ヶ原で西軍敗北の報を受けた兼続は上杉軍の撤退を決めます。
上杉軍の背後に伊達家の援軍が到着しており、兼続は挟撃の恐れを抱きました。

撤退戦

上杉軍が長谷堂城の包囲を解き、撤退を始めます。
最上軍は守勢から一転して義光は追撃を先頭で指揮。

兼続は自らが殿を務めて、最上軍の猛追を振り払います。
義光は撤退戦での兼続の働きを評価しています。

最上家のその後

義光の善政

関ヶ原戦後の戦功評価で義光は本戦での功労者である井伊直政に並ぶ賞賛を受けます。
結果、義光は出羽山形藩は57万石の大藩となります。

義光は出羽山形藩の藩主となり、領内の政治に取り組みます。
義光の領内政治は盤石であり、領民からの支持も厚かったようです。

山形城の城下町、港、農地を整備します。
義光の政治は民に寛容なことで知られ、武士と平民の垣根を取り払おうとしていました。

最上騒動

最上家の最盛期を支え、大藩にまで築いた義光は1614年に亡くなります。
義光亡き後は次男である最上家親が12代目最上家当主を継ぎます。

家親は幼少から徳川家で奉公していたため、家督相続に繋がりました。
義光の長男は徳川家に疎まれ、凶弾に倒れました。

家督を継いだ家親も家中で恨みを買っていました。
家親は1617年に37歳で死亡、毒殺説もあります。

このように義光の跡取りを巡り、最上家は動乱に巻き込まれます。

家親亡き後、家親の子供である最上家信が13代目当主になりますが、家臣団は一丸となりません。
幼き当主は家臣団を統制できず、家中内で分裂します。

幕府は事の顛末を重く受け止め、山形藩最上家57万石は改易されました。
最上家は義光の圧倒的な統制力にのみ支えられていました。

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