歴史ifシリーズ 「武田信玄の寿命が5年長ければ天下統一した?」

「歴史ifシリーズ」と題して、歴史上の「if(もしも)」を検証します!

歴史は「if(もしも)」の連続です。
1度の「もしも」で全ての事象がひっくり返る程の威力があります。

「歴史ifシリーズ」では、歴史上の「if(もしも)」を切り取り妄想します。
今回は「甲斐の虎、武田信玄」についての歴史ifです。

戦国最強を決める時常に名前の挙がる武田信玄。
多くのファンを持つ信玄の天下取りを叶えます。

武田信玄の寿命があと5年長ければ天下統一していた

歴史ifの概要

if設定:もし、武田信玄の寿命があと5年長ければ
if目標:天下統一(京都を手中に治めて、惣無事令)

「武田信玄の寿命が5年長ければ天下統一した?」という説を妄想します。

勿論、if設定なので、当時の情勢と離れています。
そこはフィクションとしてお楽しみください。

MEMO
まずは信玄公の偉大なる功績を振り返ります

信玄の偉業をまとめる part1信濃平定

「武田信玄」の名前を知らない方はいないと思います。
信玄は甲斐の国(現在の山梨県)を治めた戦国屈指の大名です。

ざっと信玄公の偉業を振り返ります。

信玄は1541年に甲斐の国の大名である父、武田信虎を追放します。
父を追放し、武田家の家督を継ぎます。

信玄は、家督を継ぐと、躑躅ヶ崎館に城下町を興します。
武田軍は躑躅ヶ崎館を拠点に、信濃平定へ乗り出します。

信濃平定

信玄は圧倒的な軍略と戦術を用いて、信濃の地にて、度重なる侵攻をします。
武田軍は破竹の勢いで制圧を繰り返します。

1541年~1551年までの間に連戦連勝で信濃の大部分を平定します。
→途中、上田原の戦いや砥石崩れなどの大敗も経験
→有能な家臣を失いならがも着実に領土を広げていきます

信玄は、信濃平定の間に分国法である「甲州法度之次第」を定めます。
有名な喧嘩両成敗の法令の一部があります。

信玄は戦争をしながら、内政を手に掛けます。
戦争、自治領の経済発展、法令化を一手に改革します。
→信玄が傑物といわれる所以

信玄の偉業をまとめる part2川中島の戦い

信濃を平定した信玄は生涯の宿敵との対峙します。
1553年から軍神、上杉謙信との川中島の戦いが始まります。

川中島の戦いは、第1次から第5次まで続きます。
→1564年まで続く、長期戦争

一般的に川中島の戦いを指す場合は、最激戦となった第4次川中島の戦いです。
両軍、多くの犠牲を出した総力戦です。

第4次川中島の戦い

第4次川中島の戦いは最激戦として後世に語り継がれます。

「啄木鳥戦法」を用いて、上杉軍の背後を突こうとする武田軍。
上杉軍は霧を利用し、啄木鳥戦法をかわします。

上杉軍は手薄になった武田軍本陣に猛攻を仕掛け、両軍入り乱れた乱戦です。

この戦いは両軍多大な犠牲を払いました。
武田軍は武田信繁(信玄の弟)、山本勘助(参謀)等名臣を失いました

信繁は御一門衆(信玄の親族の家臣団)の筆頭でした。
勘助は武田軍の軍師です。
→2人の損失は武田軍に大きな損失

甲相駿三国同盟

川中島の戦いは武田軍にとって大きな足枷です。
背後に上杉軍が睨みを利かせており、容易に戦力を集中できません。

信玄は川中島の戦いの一方で、他国との同盟策を用います。
外交面でも辣腕を発揮します。

「甲相駿三国同盟の締結」(北条氏と今川氏との同盟)、「室町幕府との関係」を強め地盤固めに奔走します。

信玄は同盟の時機、軍勢の振り方においてもずば抜けて高い能力を有します。

信玄の偉業をまとめる part3西上作戦

信長の台頭

信玄が上杉軍と火花を散らす中、西で一大勢力を築いたのが織田信長です。
織田軍は、今川軍を桶狭間の戦いで退けた後、急速に力をつけます

織田軍は京都へと勢力を伸ばし、天下統一を企みます。
→当時は、京都を掌握し、畿内を中心に統治すればほぼ天下統一です

武田軍 vs 織田軍

信長は信玄との衝突をあからさまに避けます。
貢物を信玄に送り、信玄の息子勝頼の正室に養女を差します。

しかし、信長の媚びも、信玄には効きません。
→信玄は織田軍との対峙を決定

信玄は、今川との同盟を破棄し、弱体化した今川領を攻め落とします。
そして、織田家の盟友である徳川領へ侵攻を始めます。

足利家を利用して、上杉家と和睦を進めます。
足利義昭から「信長征伐の命」を受けて、京都へと兵を進めます。

信玄の偉業をまとめる part4信玄の死

信玄は信長征伐の手始めに、徳川家への侵攻を本格化します。
この時、織田軍による比叡山焼き討ちが起きます。
→出家の身であった信玄は信長に激オコ

その激怒の被害を受けたのは、織田の盟友、徳川家でした。
武田軍の騎馬隊は、徳川軍を方々で蹴散らします。

三方ヶ原にて、対峙すると徳川家康を圧倒的な大差で蹴散らします。
破竹の勢いで快進撃を続ける武田軍。

三河武士も武田軍の侵攻には震えあがりました。
このまま信長の背後をつけば、信玄の天下統一への道も叶います。

信玄の死

快進撃を続ける武田軍に「信玄の死」という凶報が襲います。
西上作戦を決行しながらも信玄は病魔に伏せていました。

武田軍は、大御所様である信玄が絶対的な精神的支柱です。
信玄なくして、屈強な武田軍は支えられません。

信玄死後、武田軍はさっと甲斐の国へ帰っていきます。
三方ヶ原の数か月後に、信玄、死亡の報が発せられました。

※今回は信玄がもしも、ここから5年間寿命が与えられたら天下統一できるかということを検証したいと思います。

ifその1 徳川を滅ぼす!

三方ヶ原のその後

史実では、三方ヶ原の戦いで圧勝した武田軍は軍を引き下げます。
東三河の野田城の戦いを最後に突如として、退陣しました。
→信玄が没したのを悟られないように撤退

ですが「ifの世界」では信玄はまだまだ現役です。
なので、野田城から徳川勢が残る浜松城と岡崎城へ侵攻します。

浜松攻めと岡崎攻めに軍を二分します。

浜松城攻めは、次の武田家の頭首である武田勝頼を総大将に任命。
武田4天王の1人、戦国最強の赤備え、山県昌景筆頭戦力に添えます。

 

三河・浜松両仕掛け

三方ヶ原で粉々に砕かれた家康は、もはや戦意は薄いでしょう。
山県昌景の赤備えを見ただけで降伏するのではないでしょうか?

三河本面へは、信玄自身が自慢の本軍で岡崎城に迫ります。
オールスターのような陣容の武田軍は疲弊した徳川如き楽勝でしょう。

織田の援軍を足止め

徳川攻めをしたら織田軍が援軍を差し向けてくるでしょう。
織田軍の足止めが必要です。

朝倉・浅井の両家へ使者を出して、織田軍の足止めを要望します。
徳川家は孤立無援の中、1573年夏滅びます(勿論ifです)

徳川家が滅びたら、信玄の野望に一つ近づきます。
御館様の念願である「京の都に旗を立てる」を実現しようと家臣の士気は高い。

 

ifその2 織田包囲網

まずは内政を取りまとめる

1573年夏、徳川家を滅ぼした武田勢は、織田との決戦に備えます。
広大な商圏を持つ織田勢と本格的な決戦には軍備内省が必要です。

浜松、三河を抑えたので、新たな農地や漁港は確保しました。
まずは浜松、三河の地盤を固めです。

本拠の安堵を保つ

北条や佐竹の関東勢や北信越の上杉との利害関係を調整します。
信玄の息子、仁科盛信を軍団長として躑躅ヶ崎館に派遣します。

信玄は、新たに得た三河と浜松の基盤を1年間かけ地盤を固めます。
織田家も徳川家という緩衝地帯を失い、浅井・朝倉攻めが進みません

浅井・朝倉、本願寺、雑賀衆、松永、三好、武田
という信長包囲網を完成させます。

 

清州侵攻

1574年秋過ぎ、ついに武田信玄が4万の大軍を率いて岡崎城を出立
武田軍は、主軍4部隊、別動隊1部隊を用意します。

主軍は、武田4天王のそれぞれ配置。
馬場信春、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信を大将に据え、清州侵攻を開始。

別動隊は、秋山虎繁を出し、織田軍の背後を突かせます。
姉小路家との密約によって、軍勢を織田軍の背後へ進ませます。

武田の清州侵攻に呼応して畿内では、反織田勢力が一気に狼煙を上げます。
織田軍は、畿内、近江、尾張、方々で戦に巻き込まれます

 

vs 滝川一益

戦力分散に成功した武田軍の前に立ち塞がるは、織田家宿老滝川一益。
進むも退くも滝川」と評された織田家の主力軍です。

武田軍は滝川軍の鉄砲部隊に苦しめられます。

しかし、武田軍は、敏速な進軍で圧倒します。
安城城、鳴海城、刈谷城と支城を攻略し、冬には清須城を包囲します。

壊滅寸前の滝川軍は籠城を決めこみます。
すると信玄は馬場信春に清須城の包囲を任せます。

信玄は自ら軍を率い、織田家の要所となった岐阜城へと軍を進めます

 

清州&岐阜制圧

岐阜城へ兵を進めた武田軍主力部隊。
別動隊で動いていた秋山軍と合流し、岐阜城を制圧します。

援軍の希望を失った滝川一益は投降し、清須城は陥落します。

こうして、武田軍は尾張、美濃を支配下に治めます。
飛騨地方の姉小路家も武田軍へと与します。

尾張、美濃方面での織田家影響力は急激に衰退します。
一方で、畿内では、織田家の豊富な資金力と兵力で徹底抗戦。

織田軍は雑賀衆、浅井・朝倉軍、松永家を相手に優勢に戦を進めます。
日ノ本では、織田と武田の天下分け目の一戦がすぐそこまで迫っていました。

 

Ifその3 天下分け目の決戦

安土戦線構築

尾張・美濃と支配地域を拡大した武田軍。
国人衆も信玄公に恭順を示し、支配領域の整備に入ります。

支配領域拡大に伴い、支配地の調整期間へと入ります。

信玄は「三ツ者」という直属の隠密組織を使い、中央権力の情勢を把握。
索敵対象は織田家の戦況、情勢です。

岐阜城で総会議

躑躅ヶ崎館にて、内政に励む盛信からは「万事問題ない」と吉報が入ります。
関東一円は北条勢が盤石を固め、北条との関係は良好。

背後の憂いはありません。

1576年、信玄居城の岐阜城内に武田軍総軍議を開きます
軍議では真田昌幸が、奏上した「安土での決戦案」が採択。

安土決戦案では、浅井領下、長浜城を足掛かりとした対織田軍戦です。

織田軍の猛攻を辛うじて防いだ浅井家を利用し、織田軍と趨勢を決する戦いを画策します。
浅井家の長浜から戦線を安土にて構築することが決まります。

真田の「安土決戦案」では、浅井・朝倉の両軍も参戦する手はずとなりました。

織田家の動き

織田家の動きも、安土にて武田軍を迎え撃つことが閣議にて決まります。
安土は織田信長の直轄領です。

武田を迎え撃つには絶好の場所だと睨みました。

織田家は、畿内の本願寺や三好勢、西の大国である毛利家の動向が気になります。
そちらの動きは豊臣秀吉に大軍を任せて牽制するように指示。

残る織田家宿老は、全て安土への出兵を宣告。
こうして、安土にて天下分け目の合戦が幕を開けます。

天下分け目の安土の合戦

1576年夏、安土平野にて「武田軍 vs 織田軍」の天下分け目の戦いが始まります。
日本史史上、最も大規模な野戦でした(妄想)。

この戦に勝った方が覇権を握ります。

武田軍勢力 

  • 10万大将:武田信玄
  • 御一門衆・副大将:武田勝頼
  • 御一門衆:武田信廉
  • 御一門衆:穴山信君
  • 譜代家老衆:山県昌景
  • 譜代家老衆・参謀:馬場信春
  • 譜代家老衆:内藤昌豊
  • 譜代家老衆:高坂昌信
  • 譜代家老衆:秋山虎繁
  • 譜代家老衆:原昌胤
  • 外様家臣衆・筆頭参謀:真田昌幸
  • 外様家臣衆:真田信綱
  • 浅井軍:浅井長政(その他家老)
  • 朝倉軍:朝倉義景(その他家老)

織田軍勢力 12万

  • 大将:織田信長
  • 副将:織田信忠
  • 主軍:柴田勝家
  • 主軍:明智光秀
  • 主軍:丹羽長秀
  • 主軍:細川藤孝
  • 主軍: 佐々成政
  • 副軍:前田利家
  • 副軍:池田恒興
  • 副軍:九鬼嘉隆
  • 副軍:林秀貞

武田軍兵力数10万に対し、織田軍の兵力数は12万
織田軍の方が兵力数では優位に立ちました。

織田軍は潤沢な資金力で鉄砲や大砲に投資しています。
兵器力でも武田軍を上回ります。

それでも、兵の質や武将の質では両軍互角。

安土決戦開戦

合戦初日

開戦序盤は織田軍の馬防柵に、武田の騎馬隊が苦戦。
武田軍は大量の負傷者を序盤から出します。

窮地の武田軍を救ったのは「赤備え」の山県軍
昌景が突破口を開き、戦況を打開。

「やあー、やあー我こそは、武田の三郎が相手致そう!」と山県軍が戦線を突破。
昌景の働きで武田軍は足場を突破口を作り、徐々に戦況を立て直します。

初日、織田軍の主攻は猛将の柴田勝家。
勝家の部隊は、真田昌幸の術中に嵌り壊滅状態

勝家は首を取られ、織田家の筆頭家老は合戦初日に討ち取られます。

合戦初日は、互角の討ちあいとなりました。
しかし、柴田勝家の討ち死の分だけ織田家劣勢となります。

合戦2日目

合戦2日目になると織田家は明智光秀の鉄砲部隊を前線に送り込みます。
明智の鉄砲隊が次々に戦果をあげていきます。

小幡昌盛、真田信綱といった武田の名臣が戦死します。

それでも、山県勢が破竹の勢いで織田家を襲います。
織田軍主軍の丹羽長秀が敗走、佐々成政は討ち死にとなりました。

合戦2日目も互角の討ちあいとなりました。

3日目に決着がつく

天下分け目の安土の合戦は、開戦3日目に決着がつきます。
「早起きは三文の徳」と信玄は言い、開戦3日目の陽が登らぬ早朝に、織田軍に奇襲。

この不意打ちに織田軍は、出鼻を挫かれます。
織田軍は、主軍である明智軍が日の登らぬ内に、壊走。
→光秀は落延びたところを野武者に討たれる

昼過ぎには、織田家の主軍・副軍がほとんどが壊滅的な被害を受けます。
織田信長も撤退を余儀なくされます。

信長の死

信長手勢は入り乱れて、敗走します。
信長は撤退の中、原昌胤の手勢に打ち取られました。

第六天魔王の最期は、敵に背を向けた情けないものでした

壊滅した織田軍の唯一の吉報は、織田信忠の生存です。
有能な世継ぎが生き長らえました。

織田信忠は命からがら、秀吉が戦線を張る摂津地方に落ち延びます。

安土の合戦のその後

安土の合戦の後は、武田軍が一気呵成に畿内を制圧します。
信玄の念願叶って二条御所に、武田の旗を立てます。

これには、信玄もニッコリ。

1577年、武田家による惣無事令が発布されます。
武田家の天下統一はありなりました。

その年、信玄は勝頼に家督を譲り、この世を去りました。

しかし、信玄の求心力を失った武田軍は、各地で制御不能に陥ります。
戦国の世へと逆戻りです。

上杉謙信、北条氏政、小早川隆景、豊臣秀吉、織田信忠、島津義光
と各地には群雄割拠が続くのでした…

結論

今回の歴史ifでは無事、信玄の天下統一を果たしました。
「武田信玄の寿命があと5年長ければ天下統一していた」を脳内で叶えることに成功です。

三方ヶ原の戦い近辺での武田軍の勢いは破壊力抜群。
信玄の天命を迎えていなければ間違いなく徳川軍は壊滅していたでしょう。

信玄が本気で天下統一を夢見ていたら面白い世界になっていたはずです。
比叡山の焼き討ちには間違いなく信玄が怒っていたはずです。

信長vs信玄の夢の戦いを見てみたかったです。

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