「信長・秀吉・家康」誰が好き?戦国時代の三英傑をおさらい

戦国絵巻

日本史上で最も荒れていた戦国時代。
戦国時代の中で特に有名な三英傑がいます。

「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康」
名前を知らない人はいないと思います。

今回はこの三英傑の概要をおさらいしましょう。
この3人を抑えておけば、戦国時代のことはある程度語れます。

織田信長(1534~1582)

織田信長

第六天魔王・織田信長

織田信長は日本史上、最も知名度の高い人物です。
そして、信長は好き嫌いが分かれる歴史人物でしょう。

信長が残した偉業は圧倒的です。
信長は第六天魔王として自らを神格化させる傑物です。

群雄割拠の戦国時代の中で異端者として、革新的に世の中を動かします。

日本で初めて天下統一を掲げ、全国制覇へ乗り出します。
天下統一を成し遂げたのは豊臣秀吉ですが、信長が初めて天下統一の基盤を創りました

織田家

信長は父、織田信秀の子として生まれ、織田家の家督を継ぎます。
織田家(信長)は尾張の地方大名の1つから始まります。

尾張では中小勢力の1つです。
織田家の始まりは尾張の一弱小勢力に過ぎませんでした。

尾張には織田家の流派が幾つか点在しました。
信長はまず織田家の流派を潰していき、尾張を統一します。

尾張から信長の天下取りが始まります。

信長の偉業

信長は軍事・外交・内政と数多くの偉業を成し遂げます。
信長の凄いところは慣習・文化に囚われない革新的なスタイルです。

当時の日本の文化水準では測ることの出来ない器量がありました。
一代でここまで革新的な偉業を残した人物は日本史上稀有な存在です。

軍事

信長は数多くの戦を仕掛けます。
一向一揆、内乱などを含めると信長の人生には常に戦いが伴います。

主には侵略戦争を仕掛けますが、信長包囲網など防戦にも屈強です。

連戦の中には九死に一生を得る戦いもあり、全てが順風満帆ではありません。
それでも他国の所領を次々と侵略していき、物凄いスピードで天下統一の基盤を創りあげます。

信長の有名な戦い

●桶狭間の戦い
→超大国今川家を相手に防戦
→手勢の奇襲により総大将を今川義元を討ち取る

●比叡山焼き討ち
→僧兵、僧侶、一般人諸共、殺戮をする
→仏門の信玄がブチギレ

●小谷城の戦い
→義弟である浅井長政を自害に追い込む

●長篠の戦い
→信濃にて猛威を奮う武田軍と雌雄を決する
→武田軍主力を刈取りに壊滅的な損害を与える

政策

「武力を以て天下を統一する」という天下布武の印象を用います。
信長は天下統一、全国制覇(全国の所領を支配する)という概念を日本で一番最初に打ち出しました。

宗教政策に関しては、一貫して敵対する宗派を打倒します。
信長は仏教徒を弾圧し、キリスト教を優遇したわけではありません。

政治的に利用できる宗教を取り立てて優遇しました。
戦略的な要所であれば、寺院の破壊、略奪も行います。

経済政策は有名な「楽市楽座令」があります。
信長は流通を促進する政策をとります。

楽市楽座のコンセプトは六角家のものを流用します。
特筆した撰銭令もあり、安土城を中心に市場は大きく活性化します。

本能寺の変

織田信長のハイライトは「本能寺の変」でしょう。
日本の統治者の中で最も劇的に命を閉じた事件です。

本説では、家臣である明智光秀の謀反を起こし、信長が逗留していた本能寺を焼き討ちました。
信長は燃え盛る本能寺の中、自害をしたと言われています(享年49)。

光秀は謀反後の情勢を優位に進めるため、信長の首を狙いました。
しかし、信長の亡骸は発見出来なかったため、これが後に多くの謎を生みました。

この頃、信長は既に家督を嫡男である織田信忠に譲っていました。
残念ながら本能寺の変に際して、信忠も明智勢の奇襲を受け自刃します。
→これにて実質、織田家の野望は潰える

本能寺の変には仮説が乱立しています。
他の三英傑である秀吉説、家康説なども存在します。

豊臣秀吉

豊臣秀吉

天下人・豊臣秀吉

豊臣秀吉は日本で初めて天下統一した偉人です。
秀吉が発令した「惣無事令(大名間の戦闘を禁止)」により「天下人」と称されます。

秀吉の出自は定かではないが、下級階層出身だと言われています。
戦国時代にあって、最も下剋上を果たした人物とされています。

一介の野武士から関白にまで上り詰めました。

織田信長に仕え、出世を重ねて、大名にまで昇りつめます。
信長の実力主義を最も体現した人物です。

豊臣家

豊臣家と他の戦国大名の決定的な違いは豊臣家を秀吉が一代で築いたことです。
他の大名は元の地盤を固めつつ、所領を広げます。

豊臣家は秀吉が信長の下で活躍し続けて、所領を広げ家を開きました。
最終的には天下人に至っており、最も成功した大名です。

秀吉の偉業

秀吉の生涯は信長家来編と天下統一編に分かれます。
どちらの編でも最晩年までは数多くの偉業を成し遂げました。

信長家来編

秀吉のキャリアスタートは有名な「信長の草履取り」から始まりました。
「墨俣一夜城建設」、「金ヶ崎の退き口」など信長の重要局面で数多くの功績をあげます。

木下藤吉郎秀吉から羽柴秀吉と名乗ります。
羽柴とは丹羽長秀、柴田勝家から取っています。

その後も信長の重要局面では、常に秀吉の活躍がありました。
秀吉の活躍はよく知られ、次第に彼の所領、役割は増していきます。

信長家臣時代の秀忠に課せられた最大の任務は西の大国、毛利家攻めです。
「中国攻め」と呼ばれた毛利家攻めは毛利輝元・吉川元春・小早川隆景と対峙しました。

天下統一編

秀吉は信長亡き後、山崎の戦、清須会議、賤ケ岳の戦とを経て天下統一を成し遂げます。
九州統一、関東統一、奥羽平定と全国統一を果たしました。

政策では「朝臣体制」を取り、天皇、朝廷の権威を支配に組み込みます。
秀吉は関白を名乗り摂関政治を敷きました。

摂関政治の下、強行的な姿勢で各政策を断行します。

晩年は失政と評価されることが多いです。

●宗教政策
→伴天連追放令
→キリスト教を弾圧
●税制改革
→太閤検地と呼ばれる尺の統一
→石高制という統一した税制を導入
●社会基盤

→刀狩り
→身分制度の基盤
●外交政策
→朝鮮出兵(失敗)

中国大返し

豊臣秀吉のハイライトは「中国大返し」です。
秀吉が中国攻めをする中、主である織田信長の死の報せを受けます。

仇敵である明智光秀を討ち取るために毛利家と停戦をします。
一路京に全軍を率いて軍団を大移動させました。

秀吉軍は「光秀を討つ」という名目に大軍を移動させます。。

実際は信長亡き後の情勢を優位に働かせるために秀吉の天下を見据えた大策略と言われます。

「中国大返し」を裏で仕組んだのが黒田孝高(官兵衛)と言われています。
「殿、好機ですぞ」と憔悴する秀吉の耳元で官兵衛は囁きました。

結果は、10日間で200キロの道中を数万の兵士を移動させることに成功します。
明智光秀を討ち取り、秀吉の天下取りへと繋がります。

徳川家康

徳川家康

東照大権現・徳川家康

江戸幕府の始祖である徳川家康。
死後は神格化され東照大権現として祀られていました。

信長、秀吉に仕え、耐え忍び天下を奪取しました。
260年以上続く、幕府を開き日本を近代的な世の中に近づけました。

家康は征夷大将軍を名乗り、名実ともに武家の頂点となりました。

徳川家

徳川家は元は松平家という三河の小豪族でした。
家康は弱小勢力松平家の嫡男でした。

幼少期を織田家、今川家の人質として過ごします。
義元の死後、今川からの独立を果たした家康が松平家から徳川家に改めました。

幼少時代には信長と面識があると言われています。

家康の偉業

家康は今川軍、信長軍、秀吉軍の軍門下で戦国乱世を渡り歩きました。
東の強国、北条家、武田家、今川家と対峙しながら家を存続させます。

義元、信長、秀吉には配下的なポジティブに甘んじました。
秀吉亡き後は、天下取りへ画策し、豊臣勢力を滅亡させます。

天下分け目の関ケ原の合戦、大坂の陣にて戦国乱世を終結させた人物です。

徳川の世

家康は戦国の世を終わらせ幕府の基盤を創ります。
征夷大将軍を名乗り、将軍職を嫡男である秀忠に譲ります。

幕府の直轄領を定め、幕藩体制の基盤を創ります。
参勤交代、禁中並公家諸法度など徳川の世が長らく続く政策を残します。

江戸時代では神格化された存在であり、徳川の世をもたらした象徴的な人物でした。

関ケ原の合戦

徳川家康のハイライトは「関ケ原の合戦」でしょう。
天下分け目の戦いとされた関ケ原の合戦は日本を東西に二分する大会戦でした。

「西軍・石田三成」と「東軍・徳川家康」が関ケ原でぶつかりました。

家康は戦前から巧みな掌握術で親豊臣勢力を相次いで離反させていきます。
義に燃える西軍に対して、裏切りを中心に戦を組み立てた家康。

結果は家康の腹黒さが勝負を決めました。
小早川秀秋らの裏切りが関ケ原の合戦を決定的なものとしました。

三英傑の好きな点嫌いな点

三英傑の好きなところ

織田信長

●圧倒的なカリスマ性
→実力主義の登用
→銃火器による新戦術
→奇抜だけど天才的な手腕

●ロマン溢れる
→天下布武
→信長包囲網突破
→安土城建設(当時日本一の城)

●革新的リーダー
→最先端の経済網
→海外文化に堪能

豊臣秀吉

●人たらし
→優秀な人材が集まる
→参謀系~武勇系まで

●下剋上の天下統一
→惣無事令発案
→下級武士から関白へ

徳川家康

●徳川幕府の祖
→徳川幕府250年の礎
→制度基盤を作る
→後継者の育成も成功

●大勝負に強い
→武田、石田、豊臣を撃破
→致命的な敗戦をしない

三英傑の嫌いなところ

織田信長

●残虐非道(処刑&処刑)
→火炙り、串刺し
→敵対勢力には無慈悲
→女子供関係なし

●人間味がない
→合理主義者で隙がない
→真意が不明

豊臣秀吉

●不義理&弾圧
→豊臣秀次(甥)を粛清
→日本人以外には全方位的威圧

●晩年は失政
→朝鮮出兵失敗
→世代交代失敗

徳川家康

●棚ぼた感は否めない
→桶狭間の織田勝利
→信玄の死(三方ヶ原の戦い)
→豊臣の後継者不足

●ロマンに欠ける
→徳川の敵側にロマン勢力が多い
→真田家、島津家、武田家

三英傑をみるタイプ別性格

織田信長を選ぶ人

革新的な信長が好きな人は新しいモノ好き。
変化を迎合し、理想を追い求めていくタイプ。

自分の主張が明確。
利害が一致しない相手とは付き合わない。

好き嫌いがはっきりしています。

革新的でロマン溢れる信長には夢があります。

豊臣秀吉を選ぶ人

戦国一の下剋上を果たした秀吉好きは人情肌。
狡猾さも兼ね備えており抜け目のなさもあります。

他者と協調し利害を調整していきます。
美味しい所は自分が持っていく算段があります。

嫌いな相手も懐に入れます。

秀吉の出世遍歴をみるだけでワクワクします。

徳川家康を選ぶ人

徳川幕府を築いた家康は忍耐の人。
忍従の二文字を腹に決め、自分の使命を果たします。

仲間内の士気を高めるのが上手いです。
結果主義、現実主義的な側面があります。

クレバーで好き嫌いを相手にみせません。

徳川幕府の礎を築き乱世を終わらせた存在です。

まとめ

三英傑の中では信長が人気を誇ります。

信長は主役級に抜擢されるか、敢えて触れないかの二択です。
魔王のイメージが強いですが、圧倒的な人気です。

秀吉と家康は五分五分の人気です。
秀吉、家康は信長に比べると敵役として描かれることが多いのも要因です。

関西では秀吉、関東では家康。全国的に信長という印象です。

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